午前2時のhanami日記

もう午前〇時のhanami日記は書かないだろうなと記事に書いたのが、約2か月前。それなのに今(午前2時)僕はパソコンの前にいる。

 

 

いつもは、途中覚醒しても布団から出ずにもう一度眠るよう努力してきた。この作戦が功を奏し、大体朝の7時まで眠ることができていた。昨夜は20時過ぎに眠くなり、寝室に行った。速攻で眠りについたが、浅い眠りで中途覚醒をしながらも変な夢をたくさん見た。

 

 

それで、再びスマホを見ると午前6時だった。今日はドジャースの試合が午前7時からあるので、まあ起きてもいいかな、と思いリビングに行き、灯りもつけ、煙草を吸った。しばらくして時計を見ると、何と午前2時だった。僕は大きな勘違いをしていたのだ。

 

 

ちょっと愕然とした僕は、しばらく考えた。もう僕の脳もみそは起きたことになっている。目もパッチリと冴えている。よってそのまま起き続けることにした。こんな時刻にすることと言えば、記事を書くことしかない。

 

 

というわけで、もう少し頑張って記事を書いてみよう。

 

 

昨日の記事では、躁症状には心当たりがあると書いたが、今こうして記事を書いているのも躁症状のひとつであろう。勘違いとは言え、みんなが眠っている時刻に活動している。これについては、明日から厳重に注意をしていかなければいけない。せっかく取り戻した日常をキープしていきたい。とは言えつい数か月前までは、このサイクルが何年もの間の僕の日常だったので、ちょっと複雑な気持ちである。こういうのもいいな、という考えが少し頭をかすめた。

 

 

 

話は変わるが、エビリファイを飲まなくなって痩せたっていう話を昨日書いたんだけど、もうひとつあった。尋常性乾癬の症状が少しずつ治まってきているのである。具体的に書くと、僕の体のあちこちには、500円玉くらいの赤い湿疹のようなものができている。髪の生え際はいつもカサカサしている。そこにステロイドを塗り込み、症状の改善を図っていたが、最近その赤みが薄らいでいるのだ。エビリファイの効用であるかは判然としないが、僕にとっては大変嬉しいことである。

 

 

 

 

今日は、「氷点」について書いてみようか。下巻も残すはあと1/3である。今日で読了ということになるだろう。

 



こんな古い小説は誰も読まないだろうから、ネタバレとかは気にしないで書いてみよう。

 

 

~「氷点」は、三浦綾子の小説。「朝日新聞」の朝刊に1964年12月9日から1965年11月14日まで連載され、1965年に朝日新聞社より刊行された。また、続編となる「続氷点」が、1970年5月12日から1971年5月10日まで連載され、1971年に朝日新聞社より刊行された~

 

 

~連載終了後の1966年にテレビドラマ化および映画化され、以降繰り返し映像化されている~

 

 

1964年って言ったら61年前である。つまり僕が生まれた年にこの作品は発表された。その作品が現在でも僕を熱狂(熱中かな?)させているのは単純に凄いと思った。また、新聞連載だったということにも驚かされた。読者は毎日が楽しみだったろうな。っていうか61年前の人々は気が長かったんだな。今では考えられないことである。

 

 

「続氷点」にしても、前編から約5年経ってから発表されている。今だったらどうだろう。映画くらいなら5年スパンのシリーズものはあると思うが、小説ではなかなかないんじゃないだろうか。しかも続き物にも関わらず相変わらずのテンションを保ったままである(今はまだ読んでいないのでハッキリ言えないが)。

 

 

僕は、ドラマの「氷点」を観た記憶が仄かに残っている。2歳か3歳のときなのに不思議だ。もしかしたら再放送されたものを観たのかもしれない(同じことは「白い巨塔」にも言える。僕は、小さい時から財前教授と口走っていたようだ)。

 

 

それでは話の内容を書いていこう。ウィキからの引用をちょこちょこ変えただけどね。

 

 

~昭和21年(1946年)、旭川市在住の医師辻口啓造の妻である夏枝が、夫と同じ病院で勤務している医師の村井と自宅でいちゃつきたくて、娘を「外で遊んできなさい」と言った。その結果、娘のルリ子は、佐石という男に連れ去られ、近くの川で絞殺される。

 

啓造は、妻が村井といちゃついていたことを何となく察し、夏枝に嫉妬する。そして赤ちゃんが欲しいと言う夏枝に復讐するつもりで、何と誘拐犯の佐石の娘を引き取ることにする。「汝の敵を愛せよ」って言うしな、とかよく分からない理屈をつけて。ホントは夏枝に対する復讐心からそうしたことを誰にも話さなかった。

 

 

娘は陽子と名付けられ、明るく元気な子に育っていく。しかし陽子が小学1年生になった時に、夏枝は真実を知ることになる。そして陽子の首に手をかけ「一緒に死んでちょうだい」と言うところまで追い込まれる。

 

 

もはや、今までのように陽子に愛情を注ぐことができなくなった夏枝。だから陽子が給食費を何度も頼んでも忘れたふりをしたり、卒業式の答辞の奉書を白紙に入れ替えたりするなど、意地悪ばかりしてきた。啓造は啓造で、素直に抱っこはできないわ、優しく出来ないわで彼なりに苦しんでいた。

 

 

陽子は、首を絞められた後くらいから、何となく自分がもらいっ子かな?と思っていたし、夏枝の意地悪にも決して負けないぞ、と思いながら明るく生きてきた。

 

 

陽子が高校生になり、兄の徹は大学生になった。兄は、父母の言い合いから陽子のことは全て知っていた。知ったうえで陽子に恋するようになった。しかし、それも断念し、同級生の北原を紹介する。北原と恋仲になった陽子を見た夏枝は嫉妬のあまり(夏枝は北原に気が合ったのだ。年甲斐もなく)遂に、北原のいる前で真実を暴露する~

 

 

それを聞いた陽子は・・・みたいなお話である。

 

 

 

正直言うと、昔のドラマらしいなと思った。もし今、こういうテーマで脚本を書くんだったら、もう一捻り、いや二捻りは必要だと思う。

 

 

でもこの作品には重要なテーマがあった。それは「原罪」というキリスト教で扱う重いテーマだ。キリスト教徒であった三浦綾子は、その後もキリスト教を扱った「塩狩峠」という作品を発表している。遠藤周作などキリスト教をテーマに作品を書いた人はいるっちゃあいる。

 

 

僕はキリスト教徒ではない。しかし世の中には多くの信者がいる。どうもキリスト教について日本人が書くと、重い話にならざるを得ないのかなあと思ったりもする。きっと日本人は、宗教に対していい意味でも悪い意味でも大らかな民族なのだろう。そんな民族の中でキリスト教徒になったら、しかも作家だったら「原罪」とか「贖罪」をテーマに作品を書かざるを得ないのかもしれないと思った。

 

 

重いテーマだからと言って、決して読みにくいわけではない(何と言っても新聞連載されていたんだから)し、寧ろサービス満点であるとも言える。こういう(当時の)エンタメ要素満点の作品には、時代を超える不思議な魅力があるのかもしれない。だからこそ今でも気軽に書店で手に入れることができるほどの地位を築いているのかもしれない。

 

 

昔も今もキリスト教でない人たちが読んでも、「原罪」ということに思いを馳せることになるとは考えにくいが、読み継がれるべき本であることは確かだと思った。宮部みゆきの言ったことは本当だったのだ。

 

 

 

この本では、啓造、夏枝、陽子、徹他の人たちの心情が群像劇のように描かれている。僕は、最初は勿論主人公である陽子に感情移入していた。心の中で「頑張れ」と思いながら読んでいた。今読んでみても彼女は魅力的だ。しかしこの歳になると、どうしても父である啓造の心情の方に惹かれるんだよね。自身の器のちっちゃさとか、高校生の陽子の眩しいほどの肢体にクラっとするところ、夏枝に対する心情を彼女の前で堂々と言えないところなど、色々自身に投影して読んでいること自分に気づいた。

 

 

 

 

さてと。勢いで3000字も書いちゃったけど、まだ午前3時半だ。もう1回寝るという手もあるが、特に眠くない。

 

 

困ったものだが、1日の初めにブログの記事を仕上げたという事実は気分がいい。今日はこれから寝るにしても起きてるにしても充実した1日になりそうだ、というか充実させたい。

 

 

 

それでは。