「何を前提として話しているか」をはっきりさせる

タイトルを正確に書くと、「『何を前提として話しているか』をはっきりさせるためには、多大な労力をかけないといけない」である。そしてこの作業をしなければ議論というものは生じないのではないかというところにまで迫れたらな、と思っている。

 

 

話を進める前に「前提」とは何かを書いとかなきゃいけないか。調べてみよう。

 

 

~前提とは、何かを考える、行動する、判断する際に、基礎となる考え方や条件を指す言葉である。前提は一般的には明示されず、暗黙のうちに受け入れられていることが多い。また、前提は、議論や論理の基盤となり、それに基づいて結論が導かれる。・・・しかし、前提は必ずしも真実であるとは限らず、時と場合によっては変わることもある。~

(実用日本語表現辞典より)

 

 

この引用には4つのことが書いてあるが特に気になる所が2点あった。まず「前提は一般的には明示されず、暗黙のうちに受け入れられていることが多い」だ。2点目は「前提は必ずしも真実であるとは限らず、時と場合によっては変わることもある」だ。今日は1点目について考えてみようかな。

 

 

 

自分の例で言うのは卑近かもしれないが、それしか具体例が思いつかないので教員という職業の話でいってみよう。

 

 

 

さっきの前提の話でいうと、同じ教職という仕事に就いている者でもそれぞれが明示されない前提を持って働いていることになる。だから喋っているうちに「ああ、何だかこの人と考え方が似ているな」「もっとこの人の喋りを聞きたい」とか反対に「あー、話が噛み合わないぜ」「うーん・・・なんか違う・・・」とかになっちゃうんだと思う。

 

 

 

もう少し具体的に書かなきゃいけないか。運動会で児童に何を掴んでもらいたいか、について話す時なんかはどうだろう。児童主体の授業を作っていきたい教師と、効率よく児童に学習内容を理解させることを第一と考える教師がいる。ざっくりいうとこの2パターンに分けられるだろう。

 

 

となると、当然両者のめざすねらいというものも違ってくる。児童主体の授業を・・・って考えている教師は、例えば児童会主催の種目を取り入れたいと提案するかもしれないし、教師主導で授業を・・・っていう人は何言ってんの、それより規律正しく動くことが一番でしょ、と考えるかもしれない。

 

 

両者は、運動会という行事について考える際に、よって立つ前提が違う。そして前提は明示されないため、お互いに「何言ってんの」となって話が噛み合わなくなる。こういうことが学校現場の至る所で起こっている。

 

 

4月1日からの1週間でしなければいけないことは、まず学校はこういう前提で行きますね、ということを周知徹底させることだ。つまり最初に校長がビジョンを示す、それを受けて学校研究や生徒指導等の校務分掌でより具体的なものにするという作業である。それができれば、あとの行事やら授業やらのねらいが明確になってくる。

 

 

でも、僕が働いて来た約30年間はそんなことはほとんどしてこなかった。いや、してたんだけれど、結局前年通りとか、「まあ、こんな感じで」って煙に巻かれたりしてたな。だから頭の回転が鈍い僕はいつも消化不良の日々を過ごすばかりだった。

 

 

話は変わるが(変わらないか)昨日は石丸伸二のことに少し触れた。彼の議場での様子をYouTubeで見るとどんどん気分が悪くなってくる。何をこんな子どもじみたことをやってるんだ、言葉遣いももう少し何とかしてほしいね、とも思う。

 

 

でも彼は、前提をはっきりさせたいだけなんだと思った。お互いの立場をはっきりさせることなくして、議論なんか生まれないと思っているのだ。多分。(←知ったようなことを書いている)そのためにはどーでもいいかもしれないようなことから始めなければいけないのだ。そのことも彼は熟知している。どうしてそんなしちめんどくさいことをやるのかといったら、それは本気だからである。やるとなったら本気でやる覚悟を持っているから所謂世間の「まあまあ、そんなことにいちいち目くじら立てないで、うまいことやりましょうよ」みたいな姿勢に立ち向かっているんじゃないかなぁ。

 

 

 

前提をはっきりさせるためにはどんな小さいことでもめんどくさがらないで、確認して(ある意味)相手のいい加減なところをつぶしていく。その1点だけは彼を姿勢を支持したいな。彼の言ってること全部を支持するわけじゃないけど。

 

 

 

なんだか、しらないうちに頭を使い過ぎたようだ。久しぶり過ぎてしっちゃかめっちゃかになったかもしれない。それに1日3本の掟を破って煙草を4本吸ってしまった。明日は禁煙日にしよう。

 

 

 

それでは。