hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

(今度こそ)印象に残っている先生

現在2時30分。例によってもう一度眠るか、諦めて起きてしまうかの判断に苦しんだが、今日は祝日なんで、思い切って起きた。ブログを書こう、と思ったら頭がスッキリしてきた。昨日はタイトルに偽りありだったが、今日はちゃんとしよう。噓はいけないよね。

 

2014年から2018年までの5年間は病休しないで働き通すことができた。僕としては驚異的なことである。こんなことができたのはナカタ(仮名)先生の存在が大きい、っていうところまで書いた。

 

2014年に僕が勤務していた小学校にナカタ先生が赴任してきた。ナカタ先生とは面識はあった。昔々の話だが、講師の赴任先の小学校にナカタ先生がいたのだ。兄貴分肌の人で、慣れない僕に何かと声をかけてくれた。「マラソン大会の練習をするんだけど、先頭を走ってくれない?」とか「冬休みに北海道へスキーに行くんだけどhanamiさんも来ない?」とか。もちろん僕以外にいろいろな人に声をかけては場を盛り上げる人だった。スキーに誘われた時は、この僕が北海道まで行ったんだからそのカリスマ性は相当のものだった。

 

10何年振りの再会だった。ナカタ先生は僕を見つけると早速声をかけてくれた。「おぅ、hanamiさん、元気やったか?よろしくな」。他の人にも次々と気さくに声をかけるナカタ先生は、赴任1日目にして、職員室の雰囲気を作った。とにかく声がデカい。ナカタ先生は教務になった。僕は昨年度に引き続き特別支援学級担任となった。

 

当時は校地内禁煙が始まった頃だった。しかし、僕とナカタ先生は喫煙者だった。2人で密談して、機械室でこっそり煙草を吸うようになった(まあ、時効ということにしておこう)。2人とも勿論授業がある。しかしナカタ先生とはよく機械室で出会った。始めは学校の様子のことをよく聞かれた。僕は昨年度までの様子を話し、これはいかがなものかと思っていることも話すと「それは俺も感じとった。2人で学校を変えていこうぜ」と言ってくれる。そうして段々と色々な事を話すようになった。僕の病気のことも(いい意味で)ずけずけと聞いてくれた。

 

ナカタ先生はゴルフが趣味だった。ゴルフ仲間は、教頭になっている人や教委で重要な役に就いている人だった。管理職になっていないのはナカタ先生だけだった。その人達の話をしている時にポツリと「hanamiさん、今年は病休せんと頑張れや」と言われた。何でそんなことを言うのかその時はよく分からなかったが、後でよくよく話を聞いてみるとどうやらナカタ先生がこの学校に赴任した理由の一つに「hanamiを何とかしろ」(hanamiが病休しないように支えてやれ)というのがあったらしい。「〇〇さん(教委の偉い人)、心配しとったぞ」と言う。そうだったのか、でもこればかりは分からないですよ、と僕が言ってもナカタ先生は「何言ってれん。休むなや。一緒に頑張ろう」と言うばかりだった。

 

そんなナカタ先生に乗せられた僕は、その年の夏休みを無事に乗りきることができた。嬉しかった。

 

ナカタ先生は自身のこともよく喋った。例えば教頭試験を受けるといった、普通他の教員には絶対喋らないことも。僕も嬉しくなってその話題を深掘りするような質問をしていた。ナカタ先生はNGなしで何でも答えてくれた。

 

病休を乗り切った僕に対して今度は飲み会に出席しようぜ、とナカタ先生は持ちかけた。僕は長らく飲み会はパスしていた。この時代はまだ何かといえば、飲み会をしていた。研究授業が終わったら飲み会、運動会が終わったら飲み会、しばらく飲み会をしていないから飲み会、といった具合に。1年に何回やったのだろう、ってくらいの回数だった。飲み会の回数はその時のメンバーにもよるんだけど、ナカタ先生が来てから飲み会の数はぐんと増えた。

 

それで運動会の打ち上げの時には、ついに僕の方が根負けして「じゃあ、出ます」ということになった。飲み会当日ナカタ先生は、上手く僕の席を自分の隣に配置してくれたので、居づらくはならなかった。「よし。今度は送別会だな」と言ってまた僕を焚き付けた。

 

という風にナカタ先生に引っ張られてその後の3年間も無事病休をすることなく勤めることができた。そして別れの時がやって来た。教頭試験に合格したことはもう早くから聞いていたし、その年度でお別れすることは承知していた。しかし、やはり送別会は寂しかった。僕はもうナカタ先生と一緒に仕事はすることはないだろうな、と分かっていた。そして、同時にお付き合いもこれで終わりだな、ということも。そういう人なのだ。

 

 

上手く言えるか分からないが試してみよう。昔々村上春樹村上龍の対談本が出版された(今考えれば凄いことだよな)。その時のあとがきで、村上春樹は「例えば、戦争をともにした時の龍はとても心強いと思う。でも、もし僕が怪我をして動けなくなったりしちゃったら、『春樹さん、ごめんね、ちょっと様子を見てくるわ』と言って僕から去ってしまいかねない人でもある。でも僕はそれって龍らしいな、と思うし、恨むなんてことはないだろう」(←大意です)と書いていた。こんな感じ(村上龍の方です)なんだよね。ナカタ先生って。同じ職場という縁が切れたら、スパッと無駄な人間関係も切る、みたいな。大体僕を何とかしろっていう指令自体、ナカタ先生にとっては鬱陶しいものだったろうし。僕としてはありがとうございました、と言うほかない。だから今日のタイトルは「大変お世話になった先生」の方が相応しい。

 

その次の年度、僕は新しい人間関係を築くことができて、ナカタ先生不在でも1年間働くことができた。送別会も出席して歌まで歌っちゃった。しかしながらとんでもなく大変な学年に何年も関わってきたこともあり、僕の気力体力は尽きかけていたんだと思う。だから2019年の7月から長期の病休を取ったのは必然だったのかもしれない。

 

以上、情けないけど「大変お世話になった先生」について書いてみました。ほんとはお世話する立場にならなきゃいけない歳なんだけどね。

 

 

さてと。八宝菜作ろうっと。明日明後日頑張るぞ。