「僕の樹には誰もいない」松村雄策

今朝アマゾンからメールが届いた。松村雄策が闘病中にタイトルを決め刊行を進めていたエッセイ集が10月26日に発売されるという。タイトルは「僕の樹には誰もいない」。何だか寂しいタイトルだが松村雄策が決めたんなら「そうか」と頷くだけである。楽しみにして待つことにしよう。

 

タイトルに関する記事は以上である。平日に記事を書くのは2学期に入ってから辛くなっている。何より学校にいること自体、体力的に辛くなっている。やはり運動のようなものが必要なのだろうか。夏に運動をしてこなかったのがまずかったのだろうか。精神的にもきつい。その原因となっているクラスで授業するのはかなりつらい。もうへこたれてもいいのでは、つまり何らかの形で休んでもいいのでは、とさえ思う今日この頃である。

 

さて、力を振り絞ってひろゆきのことを書くか。

 

今朝早くにYouTubeを観ていた(例によって沖縄の件である)。それを観た妻は「これでひろゆきの人気はグンとあがるだろうね」と言った。僕は「いや、それもそれだろうけど、これから左翼叩きが始まるんじゃないか。ネットの人は誰かを叩きたいんだろうし」と答えた。ひろゆきに関しては、別に凄いとか凄くないとかは思っていない。面白い見世物、みたいな感覚で僕は彼のことを見ている。

 

先週の金曜日にアベマプライムで論争が始まって以来、ひろゆきの切り取り番組や、ひろゆきに反論する人を叩く番組はたくさんあるが、左翼の人が真正面からこの問題について話している番組は今のところ見当たらない。僕の方には案内してくれてないのかもしれないし、探せばあるのかもしれない。ツイッターラサール石井や何処かの記者が何か言っているのは知っているが、何だか迫力に欠ける。もっと大物に登場してもらいところである。

 

 

僕が今思っているのは、この件をきっかけにして学校教育の在り方にまで話が及ぶのではないかということである。詰まるところ教育とは究極の共産主義だ、教育の目的はつまるところ人間の均質化だというようなことを昔花村萬月が劇中の登場人物に語らせていた。だから学校は、今日でも左翼的匂いが比較的強い場所だとは思う。

 

例えば?そうだなあ。例えば全員に同じ事を求めるって左翼的じゃない?でも北朝鮮とかも全員に同じ事を求めるし違うか。じゃあこれでどうだろう。極左や極右という極端な場所では同じ行動を求めるのかもしれない。だとしたらすごいな。学校が極左か極右な場所になってしまう。

 

一時運動会に順位をつけないというのがあったな。あれは左翼的考えから来るものだと思われる。同じ宿題を全員にやらせるとか、制服を着るとか、同じ姿勢で授業を受けさせるとか、は何か思想性を感じるな。そうじなんかうちの学校は縦割りでグループを作り、無言で清掃させている。初めて見た時はゾゾッとしたものだ。実際現場ではそういうのを変えていこうという動きもある。しかしほとんどの日本全国の小学校は旧態依然のままだ。そして自分の頭で考えない人を量産していくのだ。

 

それと同時に先生達が子ども達を自分の(先生の)下にコントロールしたいという欲求があるのも事実だ。じゃないと自分のやりたいように授業を進められなかったり、クラス運営ができなかったりするからね。これについては「コントロール欲求をコントロールするのが課題だ」という記事を書いた。だから先生という職業は何らかの思想性を帯びざるを得ない。ただし家庭教師や塾講師は別だ。目的が個人の学力向上とはっきりしている。話は飛ぶが、公教育における先生の今までの役割は、終わりを告げようとしているのかもしれない。

 

ひろゆきから随分と遠くまで来たものだ。しかし、ひろゆき問題は僕にとって長年の疑問を解消できるかもしれない、重要な出来事なのだ。