hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

新年度が始まったよ

最近また炬燵で寝落ちすることが多くなった。絨毯等何もひいていないフローリングの床で眠るので起きたら体が痛い。今日は午前3時に目覚めてしまった。どうにも眠れそうにないのでコーヒーを淹れて久しぶりに朝からパソコンを開いている。4月1日からこの調子である。別に気合が入っているわけではないが、もう少し眠りたいものだ。

 

そういえば前々々回の記事で心臓がバクバクすると書いたが、今はバクバクしていない。多分先日校長から今年度のポジションを言われたからだろう。今年度も昨年度と同じく社会の教科担任となった。その日の夜はアマゾンを彷徨い、社会科に関する教育書を爆買いした。もう昨年度のような授業はしたくない。これからの数年を生き残るためにもうひとつ、レベルアップしたいものである。昨日は教育書を読んでいるうちに授業のイメージが少しずつできてきて結構興奮したな。気持ちとしては社会科でもう1年やれそうな感じである。取り敢えずここで書くのはやめて後は家に帰ってから書くことにしよう。

 

 

 

只今18時15分。急いで書かなくちゃ。朝一発目の職員会議では予定通り級外として4,5,6年の社会科と特別支援教室の書写を1時間担当しろと言われた。ショックだったのは、担任発表が終わった後の校長の言葉である。「なおhanami先生ですが、県教委から今年度も引き続いて軽業という通達が来ました。教職員のみなさん、お知りおきください」だって。そんなこと聞いていなかったので、思わず「マジか!」とみんなにも聞こえる声で呟いてしまった。というわけで、何だかその時は気持ちが落ち気味だった。多少だけど。

 

それにしても久しぶりに職員会議に出ることができたじゃないか?入学式の役割分担の話し合いにも参加したぞ。でも周囲は、特に管理職は昨年度と同じ感じで僕のことを捉えているんだな。しゃあないか。というわけで気を取り直して、午後は社会の教育書を読んでお勉強した。そして「つまり」と「例えば」という言葉遣いが教師も子どももできるようになればいいのだ、ということが分かった。前者は演繹的思考(抽象化)をする時に遣う言葉で後者は帰納的思考(具体化)の時に遣う言葉である。どちらも本校の教室に掲示してある「こんな言葉で友達同士交流出来たらいいね」のカードに書いてある言葉だが、授業で意識して遣われることはほとんどない、と言ってもいいだろう。大体友達同士で考えを交流していて、自然と多くの子ども達から「つまり?」とか「例えば?」という言葉が出てくるはずがない。本来はもっともっと丁寧に扱うべき言葉じゃないかな。なんてことを読みながら思った次第である。

 

仕事の話はこれくらいにするか。今急いで読まなければ、という本が2冊ある。町田康「告白」と花村萬月「ハイドロサルファイト・コンク」だ。ほぼ同時に読み始めたが、結局花村作品の方にいってしまった。もう3分の1くらいは読んだかな。本書の帯には「ドキュメンタリー・ノベル」というわけの分からない言葉をつけているが凄まじい作品である。やっぱり帯を引用させてもらうか。

 

「〈骨髄異形成症候群〉発症から骨髄移植、GVHD間質性肺炎、脊椎四か所骨折へと至る治療の経過を観察し続けた作者自身による満身創痍のドキュメンタリー・ノベル!」

 

どうだろうか。少しは分かっていただけたであろうか。さっき3分の1くらいは読んだと書いたが、まだ骨髄移植までいってない。けれど、壮絶な話を淡々と書いている。やはり花村は骨の髄まで(←駄洒落じゃないが)作家なんだなあ、と思い知らされる作品である。とにかくいちいち細かく詳しく具体的に書くから、こっちが辛くなってくる。ネットで検索すると、自身でレビューも書いていた。できれば日曜日までには読了したい。月曜日はロッキングオンを買わねば(松村雄策追悼号だと思うので)いけないからな。

 

 

とにかく今は少し授業像が見えてきたかな?ということもあって多少気持ちは上がっている。上がり過ぎないように気をつけないといけないけれど、まあこんな調子でやろうと思っている。以上!