hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

夏眠日記その33

「座禅とは何かと一言で言うと『ゲームを一服すること』ですね。いっぺんこのゲームからおりて、ゲームを離れたところから全体を見渡す。そして『あ、ゲームだった』と改めて感じる。得した損したという思いは、ただヴァーチャルな世界の中の思いでしかないと。ならば、もう少しこのゲームを楽しくする、新しいルールはないかと、そういうこと考える余裕を与えるのも座禅だと思いますね」

 

 

のっけから硬い話で申し訳ない。たまたまテレビをつけたらこんな番組(天地いっぱいを生きるーこころの時代―)をやっていたんだよ。上の言葉は安泰寺九代目堂頭であるネルケ無方という人の言葉である。彼はドイツ生まれで30年間安泰寺で修行し続けている。20年前から堂頭をつとめているということだ。

 

彼の言う「ゲーム」というのは「ポイント稼ぎをすること」、つまり「対価を払って何か(食べ物等)を得ること」「労働力を売ってお金を稼ぐ、誰かとランク上位を目指して競争する」そして「何かや誰かと比較をする」ことを表す。「ゲーム」が生まれる以前、人間には宗教は必要なかったと彼は語る。「ゲーム」が生まれてから宗教が必要になったと言うのだ。

 

(今まで持っていた)「ゲームを離れた視点」を無くしてしまっているから宗教が必要になるのだと。宗教は人間たちがゲームをしている自覚をもたらす作用があり、「そんなに必死に稼ごうとしないで。これは所詮ゲームだよ」ということを人間に悟らせようとしているのだと彼は語っている。

 

また彼は20年間で20人の弟子を独り立ちさせたと語る。その中で日本人は「トマト」、外国人は「カボチャ」だと例えていたのが面白かった。理想は「きゅうり」だと言う。

 

「トマト」はよく言えば「素直」、悪く言えば「こっちから何か言わないと動けない」ことを表す。日本人は素直だが、主体性がないということだ。「カボチャ」は何もしないと地面に勝手に四方八方に伸び放題になる。つまり「俺が俺が」と主張するのが外国人の特徴らしい。その点きゅうりは1本棒を立ててやれば後は勝手に自分で上に伸びていく。これが理想だというのである。ただ「トマト」や「カボチャ」をきゅうりのように育てるのには無理があるらしい。だからこそ「1年に1人だけ(独り立ちさせることができる)」なのだろう。

 

 

番組のディレクターが座禅をしているネルケ無方に尋ねる。

「座りながら何か考えるんですか」

 

「いや、考えるわけではないんですね。まず今、忘れていた『ここ』に戻るんですね。首より下の自分の身体に気づいて呼吸に気づいて、いつもそこにあったけど聞こえなかった音に気づいて、考えるのをやめるっちゅうか、考えが湧く以前のところに戻って、そして実際に頭に浮かぶものもあるんですけれども、それを手放しながら流すわけですね」

 

「そうするとおのずと今までは考えの中(頭の中)だけでやり取りしていたということが見えてくるんです。頭の中でポイントを稼いだ、とか失くしたで落ち込んだ、ばかりなので、あの鳥の声とかこの吐く息、吸う息、すら私は気づかなかったんだ、という。そこから入りますね。だから考え事をすることが目的ではないんです。今『ここ』に戻ると、余裕が出来て新しいゲームのルールをことさらに考えるわけでもないし。それに心の余裕ができると、今までは得しよう得しよう、勝とう勝とうと思っていた人は、たまには相手に勝たせてもいいじゃないかという風に思うんですね」

 

「例えば、親が子どもと将棋とか囲碁をやってる時も親までが必死に勝とう勝とうと普通思わないんですよね。何故ならば親としての余裕があってむしろ、子どもに勝たせて子どもにこのゲームの楽しみを覚えてほしいという。我々は普段ライバルとの競争の中でそういう余裕はないんですけども、座禅をしているとそういう余裕も生まれてくるんですね。たまに負けたって、相手がそれで嬉しかったら勝たせてあげようという、みんなでやっているんだから結局みんなが最大に楽しめるようなゲームにしようぜという」

 

 

うーん、今の僕には難しいな。みんなで楽しもうぜ、というよりもトモフスキーの歌にもある「天敵はいるんだよ」の方が考えとしては楽だ。ビジネスな関係で付き合えばいいんだから。まあ僕にはそれも無理だったけど。

 

この後もいろいろ興味深い話を聞くことができたが、だんだん(宗教や哲学の)深みにはまりそうだったのでやめておいた。「生きていることには意味はない」とか言っちゃうんだもん。ちょっと怖い。でもお盆というタイミングだからこそ観ることができた番組だった。

 

この番組は2020年に放送されたんだけど、この後ネルケさんは山を下りて都会に向かったらしい。都会でどんな佇まいをしているか知りたくなった。

 

 

昨日のア―ケイド・ファイアのことも少し書くか。2004年「フューネラル」でデビューした彼らはカナダのケベック州出身のロックバンド。流しっぱなしにして聴いていたら何曲かいい曲があった。いい曲なんだけど新しい感じはしないんだよなあ。「何々っぽい」感じが拭えないというか。しかし真面目さ、一生懸命さは伝わってくるし、嫌いじゃない。結局「ギザギザ」が感じられないから「お勉強」している気持ちになるんだよ。うーん、「お勉強」ならピンク・フロイドの「原子心母」をお勉強しなければいけない、と昨日のベストヒットUSAを観て思った僕だった。