hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

昭和の匂いがする2人

2009年(発病した年)から数年間、映画と本を狂ったように観て、読んでいた。その時宮部みゆきに出会ったのだが、ある時、「初期の宮部作品には昭和の匂いがする」と思った。昭和の匂いってどんな匂いだ?って聞かれても困る。困るのだがここはひとつ考えてみるか。

 

僕がそう思った作品は、「龍は眠る」(1991)と「クロスファイア」(1998)だ。両方ともいわゆる超能力者ものだ。とはいえ出版されたのは平成に入ってからだ。1991年は平成3年、1998年は平成10年だ。僕はこの作品の何に「昭和」を感じているのだろう。

 

両作品に通ずるのは「暗さ」だ。昭和の「超能力者もの」と言えば「自分の能力を呪っている」「しかし、その能力を使わざるを得ない時が来る」。そして「孤独」。そういう悲哀感がたっぷりあった。僕(達)はそこに感情移入し、さらに物語に没入していったのだと思う。

 

「超能力者もの」という設定自体に「暗さ」「悲哀感」が自然に生まれていたのか、それとも意図して生み出す、つまりそういう書き方をしていたのか、そこが知りたいところだが、今日の僕の頭では無理だ。人称と文体が関係しているんだと思うんだけど。

 

宮部みゆきはその後、2003年に「ブレイブストーリー」を発表している。こ~れはもう、「平成感」丸出しでしょ、っていう作品である。「クロスファイア」から5年間。その間何が起こったのだろう。宮部はRPG好きだからこういう世界観を文学作品でも表現したかったっていうこともあるだろう。それは分かる。でも僕にはさっきの2作品が気になるんだよなあ。

 

ひとつ思ったのは、よしもとばななである。よしもとばななの文体の影響はなかったのだろうか?しかしながら彼女のデビュー作「キッチン」は1987年(昭和62)である。それこそ「昭和」の作品だ。

 

「キッチン」→「ブレイブストーリー」なら話は分かる。しかしその間に「龍は眠る」と「クロスファイア」があるのはどうも座りが悪い。よしもとばなな説も今イチ説得力がない。

 

今日はもうダメだ。調べればわかることもあるだろうけど、何もする気になれない。

 

 

もう一人「昭和」の匂いがする作家は平井和正である。彼の「幻魔大戦」シリーズ、「ウルフガイ」シリーズ、あるいは「アダルトウルフガイ」シリーズ。これも今考えると思いっきり昭和な匂いがする作品群だ。

 

僕は平井和正で言ったら「アダルトウルフガイ」シリーズが一番好きだ。その中でも、「不死の血脈」「凶霊の罠」がたまらなく好きだ。

 

「アダルトウルフガイ」の主人公はルポライター犬神明。満月になると人智を超える力を持つ「狼人間」に変身する。いわゆるヒーローものなのだが、巨悪と戦う孤独なヒーロー、彼に関係する女達、あまりハッピーとも言えない結末。どれをとっても「今」とは違う気がする。やはりある種の「暗さ」を感じる。

 

先ほどの2作品では、唯一の親友郷子が犬神明を救うために相手の霊力を一身に受け止め、全身ガンに侵される。そして妹分の雛子にその後を託す。女を近づけないようにしてきた明だが、雛子には心を許してしまう何かがあった。

 

その雛子が登場するシーン、つまり犬神明と雛子が交流するシーンだけを僕は何年も読み続けている。いつものパターンだ。

 

雛子は「誰とでも仲良くなれる」「凛々しい」「可愛い」「酒豪」「話し上手」「聞き上手」「巨大な霊力の持ち主」である。

 

もしかしたら僕は、男目線で書かれた理想の女性と男性の交流を嬉々として読んでいるのかもしれない。そしてそれは、今では「女性蔑視」につながる読み方なのかもしれない。

 

しかし、美しいものは美しい。それが昭和の価値観で書かれたものであろうがいつの時代に書かれたものであろうが。