ティッシュ1箱分の涙と鼻水

僕は職業柄かどうか分からないが、「説教」が好きだ。するのも誰かの「説教」を聞くのも。

 

一昨日「エースをねらえ!」を読んだ(1部の最後の方から2部の最後まで)。このマンガにはあらゆるところに「説教」じみたセリフが散りばめられている。早速写経してみよう。

 

まずは宗方仁が岡ひろみに言った言葉。

 

「むかしお前くらいのころ、忘れたいことがあって、ついでに体に寿命のあることすら忘れはてたことがある。『この一球は絶対無二の一球なり されば身心をあげて一打すべし』だが、その言葉が心底骨身にしみたのは、テニス生命をたたれてからだった」

 

「この世のすべてに終わりがあって、人生にも試合にも終わりがあって、いつと知ることはできなくても、一日一日一球一球、かならず確実にその終わりに近づいているのだと」

 

「だからきらめくような生命をこめて、本当に二度とないこの一球を精一杯打たねばならないのだとーあとから思った」

 

 

 

次は、再起不能になった宗方仁が桂大吾に言った言葉。

 

「つまらん人生だと思ったが、おじいさんがこう言ってくれた」

 

「『迷いを解くと、人はもう神だ』と。『その技は神技だ』と」

 

「おれは聞いた。『こんな迷いが解けるだろうか? 地獄のドン底に落ちているのに!』」

 

「解けるとも! 地獄の底も極楽の天辺も同じことだ。仁。良いも悪いもないのだよ。何事であれ事が大きいほどまたエネルギーも大きい。前向きに解決できればその人間の人生をどれほど高く押し上げてくれることか!」

 

「くじけるな仁! ドン底を見たお前だからこそそこから逃げるな! ドン底を知った者こそが強いのだ! 体がきかぬなら仁。選手を捜せ」

 

「人にはふさわしい出会いがある。お前が心底打ち込める選手がどこかに必ずいるはずだ。 はやく捜し出して育ててやれ!」

 

 

もう「エースをねらえ!」は何回も読んだはずなのに、読み始めてからすぐに、涙と鼻水がでてきてしょうがなかった。今までもそうだったんだけど、今回はひどい。歳をとったからかな?

 

 

ちょっと冷静にならねば。

 

全国の「エースをねらえ!」愛読者なら巻を追うごとに画風が少しずつ変わっていることに気づいている。僕は、お蝶夫人とダブルスを組めと命じた頃の宗方仁からそれが始まったのではないかと睨んでいる。その後も宗方を描く時に一番力を入れていやしないかい?と思うほど彼の顔は変化していった。大きな変化は目だ。目が少女マンガの目じゃなくなっている。つまり小さくなっている。藤堂でさえまだ目は少女マンガの範疇にあった頃、すでに宗方仁だけは最終形に向けて進化していったと思う。多分みんな言ってることだろうが。

 

次に藤堂、尾崎、千葉が同じように変化していった。お蝶夫人が変わる前に緑川蘭子が変わった。さすがにお蝶夫人には手が出せなかったのかな。第2部でもお蝶夫人の目には手を加えられなかったと思われる。岡ひろみも同様である。大人びたとはいえ目の大きさはまだ少女マンガの範疇だ。黒目の陰影やまつ毛等で大人びた雰囲気を出そうとしていたのではないだろうか。

 

何故画風が変化していったのか?この物語は高校生から大学生までの青春時代を描いたもの(宗方等の大人は除く)だから成長していく過程を画風の変化で表すのは当たり前じゃないか、という考えもある。僕もそれには賛成だ。しかし、この話は岡ひろみの単なる成長物語だけではない。もう一つの話の軸として宗方仁の生き様も描かれているのだ。その生き様は峻烈だ。だからこそ、宗方仁というキャラクター自身が画風を変えるように作者に求めたのだと僕は思う。宗方から画風が変わっていったのはそのためではではないだろうか?宗方の描き方が変わっていくと同時に「説教」も増えてくる、と感じるのは自分だけかな?

 

とにもかくにも何年振りかで読んだが、久しぶりに心がシャキッとしたよ。

 

 

 

 

 

最後にどーでもいいことだが、西高学園祭でギターを弾いていた藤堂は左利きだった。初めて知ったよ。でも何故?山本鈴美香はポール好きだったのか?