hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

「印象派の冒険」山川健一 ルノアールについて考えてみた

いつか書いたが僕は、山川健一の熱心な読者だった。大学から30代くらいまでは、刊行された本のほとんどを読んでいたと思う。

 

その中でも「印象派の冒険」という本が何となく気になりつつも、「画家の本か・・・」と思い敬遠しているうちにいつの間にか廃刊になっていた。

 

僕が絵画に、それも印象派の絵に興味を持つようになったのはここ10年のことだ。だから、「山川健一は彼らのことをどう評していたのだろう」ということが気になり、重ね重ね「あの時買っておけばよかった」と思ったものだ。

 

印象派とひとくくりにしてもなかなか僕の好きな画家が伝わらないから先に書いておこう。まずはゴッホセザンヌ。この2人にはロックを感じる。例によって何故かは言語化できない。次に好きなのはロートレックかな。「ムーランルージュ」のポスター?は最高だ。

 

きっと山川健一のことだろうから、「〇〇は女とヤリまくって云々」と書いてあるだろうと思ったが、その通り書いてあった。書いてあったのは「ゴーガン」の項だった。

 

今回は「ルノアール」について書いてみたい。僕自身あまり好きではないが、日本ではとても人気がある画家の一人であると思われる。彼のことを悪く言う人はいないのではないだろうか。美術館に行ってもとにかく何はさておきルノアールの絵が展示してある様に思う。

 

僕にとってルノアールは、何だか綺麗にまとまっている絵を描く人だな、というのが第一印象だった。1876年に描かれた「陽を浴びる裸婦」ではまさしく太陽の陽光を浴びる少女の様子が描かれている。少女の身体には太陽の光と思われる明るい箇所がいくつもある。これを僕は「ああ、この明るい箇所は太陽の光なんだな」と勝手に解釈していた。これを当時の美術界の評論家は、「身体に斑点が着いたおぞましい裸婦」「女性のトルソ(人間の胴体部分)というものは、死体の腐敗した状態を示すような、緑や紫の染みで作られた肉の寄せ集めではない」などと否定的だったらしい。それを読んで僕は、「そうか。当時は陽光が身体に写っている様子を描くことは異常な事なんだ」と思った。身体は身体でちゃんと室内にいる時と同じように描くのが普通とされていたんだ。

 

ルノアールはそれは違うんじゃないか、と思って裸婦の身体に陽光を描いた。また身体と背景がはっきりと区切られていない(輪郭線が曖昧)ことも当時は衝撃的というか「ありえない」ことだったのだろう。「陽を浴びる裸婦」は当時の美術界にとってかなり挑戦的な絵だということが分かった。現代に生きる僕(達)は、知らず知らずの内に「光を読み取る目」や「輪郭が曖昧でも不思議とは思わない目」が養われているのかもしれない。

 

山川健一ルノアールのことをどう評したか。

 

僕の予想した通り、彼はルノアールをあまり好きでないことが分かった。「あの豊満な裸婦像も、静物画も、子供たちの絵も、どこか作り物とでもいった感じがしてその世界にうまく入り込むことができない」と述べている。

 

しかし彼のルノアールに対する印象が変わったのは一台の車椅子だった。それは、ルノアールが66歳の時に住むようになった「コレット荘」の二階にあるルノアール用の車椅子だった。歩くことも困難になり、リウマチで絵筆を持つこともかなわず、手首に筆を縛りつけ、絵を描き続けた。不屈の意志を内側に秘めた画家としてルノワールのことを見るようになる。その上で何故豊かで平安で美しいものだけをキャンヴァスに記そうとしたのか、山川健一は考え続ける。

 

そしてルノアールが、激しい雨の只中に身を置きながらも、明日はきっと良いお天気になるに違いないと楽天的に思えるタイプの人間だったこと、それ故に彼の多くの作品は、そんな彼の意志の結晶だったと結論付けている。

 

僕は山川が描くルノアールを読みながら、桑田佳祐のことを考えていた。彼は巨大なポップアイコンだ。と同時に辛口の評論家でもある(と思われる)。でも、彼の作品は多幸感に溢れている(と思われる)。色々な物事が見えても、それが暗くて陰湿なものでああっても最後には優れたポップソングとして世に出る。何だかルノアールに似ているように思えた。

 

山川健一ルノアールの項につけた題名は「職人気質を忘れなかった、コレット荘のルノアール」。それぞれの小見出しは「不屈の意志を内側に秘めて豊かな情感を描き出したルノアール」「ゴッホの絵はぼくをハイにし、ルノアールは幸福の姿を見せてくれる」「農夫がオリーヴを育てるように彼は自分の絵を育てた」である。

 

 

それにつけてもやはり山川健一は、人物の紹介をさせたら天下一品だと思った。絶対その人の曲を聴いたり絵を見たりしたくなるもの。きっと愛情を持ってその人と対峙しているからなのだろう。