2011年8月15日、福島。遠藤ミチロウは実家に帰り、家の呼び鈴を押して鍵を開け、「おかあさん」と呼びかける。何度呼び掛けてもお母さんは出て来ない。実家に行く途中では昔よく釣りをしていた川を見ながらガイガーカウンターも見ている。結局ミチロウが家にいるお母さんを見つける。久しぶりに会う母親にプレゼントのバッグを渡すミチロウ。そうして話しているうちに弟夫婦たちもやって来て記念写真まで撮る。
こんなシーンから遠藤ミチロウのドキュメンタリー映画「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」は始まる。
そして場面は雷が鳴る中、狭い野外ステージで「天国の扉」を演奏するシーンへ。それはそれは美しい。
昔ミチロウと話していて、「今ドキュメンタリー映画を撮っているんだよね。ロードムービーみたいなやつ」という話を聞いた。何年かかっても言ったことは必ず実現してきたミチロウなので、気長に待っていたら2011年がやって来てしまった。その結果、計画されていたドキュメンタリー映画は、当初の構想とは違って、2011年1月23日から9月16日までのミチロウの旅の記録となった・・・と思われる。ミチロウは、2010年に60歳の還暦を迎えていた。
「天国の扉」の後、いきなりスターリンZの演奏シーンが始まるが、臓物を投げたり豚の頭を掲げたり、一見過激に見えるパフォーマンスも、緊張感のない予定調和の世界になっていた(そのことは後のインタビューでも触れていた)。
そしてホテルでのインタビュー、APIAのマスター伊藤哲男やシンガーの三角みづ紀との対談(本作品のそこかしこに挿入されているが、母親との微妙な距離について語るミチロウの感覚は良く伝わった。自分と似ていると思った)、リハーサルの様子などが映し出される(僕もリハーサルの様子を見させてもらったことがあるが懐かしかった。ほんとにギターと声に拘っている様子がよく分かる)。ここら辺は初めに考えていた構想なのだろう。話していた内容のほとんどは今までいろいろな媒体で話していたことだ。
(おそらく)ホテルでのインタビューの後、時は2011年3月11日を迎える。東日本大震災が起こった日だ。4月22日静岡でのライブで震災のことを話すミチロウ。確か4月上旬に僕の住んでいる地方にやって来て同じように震災についての話をしていた。そして「原発ブルース」という曲を歌った。
その後、各地のライブハウスでその店のマスター達と話し合うミチロウの姿が映し出される。
ここからが本題だ(3.11が起きたために本題になってしまったのだろう)。8月15日に「FUKUSHIMA」をネガティブなコトバからポジティブなコトバへという趣旨の元、福島から日本各地、世界各地へ呼びかける「プロジェクトFUKUSHIMA!」というフェスティバルが世界中で同時多発的に開催される。ミチロウは大友良英、和合亮一(詩人)と共に発起人として同プロジェクトの企画・運営に携わることになる。
記者会見でのミチロウの姿は凛々しかった。堂々としていた。今まで経験してきた人数より遥かに多くの報道陣の前で話したであろうにそんなことお構いなしに自分の言葉で話していた。。
その後少し時を戻し、8月6日広島に戻る。たまたま広島にいた竹原ピストルの元を訪れ、「僕の一番好きなミュージシャンです」と言った。また17回目になる「爆心地ライブ」について「OTIS」のマスターと話すミチロウ。「ヒロシマ」というカタカナ表記について語るマスターに同意している。「OTIS」では「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」をフルで歌う姿が流れた。
ミチロウは本作品のブックレットでこう書いている。
2011年はとんでもない年だった。
自分が歌を歌うということはどうなんだと突きつけられた。
やっと還暦になったとたんの、思いもかけない出来事だった。
今までの自分は何だったんだと脱力した
みんなに地元(母)があるように、
そこと向き合うことが、どれだけ厄介なことか
みんな知ってるんだ。
それに甘えるように旅をして歌う。それが僕だ。
変わらないものは変わらない。
変わっていくものはどんどん変わっていく。
それを見逃がしたくないんだ。
長年ミチロウを追いかけてきた僕はその文章を噛みしめるように読んだ。何となく分かってはいたけれど、ミチロウがここまではっきりと話すことは今までなかった。それだけ2011.3.11は彼にとって大きな出来事だった。
(続く)