hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

「教える」ことは「説明する」こと?

どうも最近の風潮として子どもに何かを「教える」ことを「説明する」して分からせることだと考えている人が多いようだ。それ以前に「教える」という言葉を教員が使い過ぎているのが気になる。その結果、授業者は必要以上に喋りすぎる。子どもが言ったことをわざわざもう一度説明し直すことすらある。最悪だ。「教える」という言葉はもっと注意深く使わなければいけないのではないか。そして使い方によってその人の教育観も分かるのではないだろうか。

 

大体「教える」という言葉は難しい。どういう意味なんだろう、「教える」って。

 

goo辞書では、

  • 知識・学問・技能などを相手に身につけさせようと導く。
  • 知っていることを相手に告げ知らせる。
  • ものの道理や真実を相手に悟らせて導く。戒める。教訓を与える。

 

とある。

 

学校では①と③が「教える」という行為なのだろう。①でも③でも、「導く」という言葉がキーワードだ。

 

「導く」ことは「説明」して行うものではない。「説明」というこちら側の都合のいい言葉で身につくのなら、百万回言えばそれでいい。でもそういうものじゃないだろう、教育って。まずは児童の「やってみたい」「分かりたい」気持ちを引き出さないと、「導く」ことはできない。それをやらずに導いたと言うのなら、ただの大人の自己満足だ。

 

「やってみたい」「分かりたい」気持ちを引き出す、と書いたがそれを考えることこそが「教材研究」である。プリントを印刷したり、掲示用の拡大コピーを作ったりすることが教材研究ではない。それは「準備」である。その教材の価値、学年の系統、単元の系統、児童の実態等からどうやってその教材を理解していくといいのかを考えるのが「教材研究」である。

 

そこには「分からせよう」「分からなければこちらから説明しよう」という発想はない。だから「教える」という言葉を使うなら、それなりに教材研究をした人に使ってもらいたいもんだ。

 

まず「何をどう教えるか」「そのために児童にどんな『しかけ』をするか」考えてみよう。

 

何度か書いているが、「教育」とは「教え」「育てる」行為だ。「育てる」という視点がないと「教える」=「説明する」に傾くことになりがちになると思う。

 

(ちょっとえらそう)